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由緒沿革

西光院 本堂

皆さん、西光院が開かれたのはいつ頃と思いますか?皆さんが思って居られるよりもっと古い時代かも知れません。

▼ 田原史によると、天正十年と記載されています。西暦で言うと一五八二年、今から四二四年も前に開かれた事になります。時代背景として安土桃山時代になるのでしょうか。歴史にて織田信長が本能寺の変にて戦死したのも、天正十年(一五八二年)六月一日、四十九歳であったそうです。

▼ 豊臣秀吉と徳川家康と仲違いをする頃の様です。一五八四年この二人の争いは激化、小牧、長久手にて家康が勝利し、その報復として家康側にあるこの渥美地方を、秀吉は志摩の九鬼水軍を渥美内海に侵入させ、沿岸一帯和地より吉胡まで放火侵掠したそうです。この年田原地方は大飢饉で皆さんの御先祖様は大変苦労された事と思います。

▼ この年十二月十二日、家康、秀吉が和睦し、平和が訪れたようです。

▼ 話は西光院に戻りましょう。田原史によると御開山様は声範記和尚となっていますが、お寺の記録によると、龍門寺六世春嶺玄香大和尚となっています。私が思うに出来た当時は無宗派の寺院だったのでしょう。昔はお寺の住職が必ずしも同じ宗派の僧侶が住職をするとは限らず、時代によって宗派の代わっているお寺は数多く点在しているようです。声範記和尚が開いて後、曹洞禅の春嶺玄香大和尚が入山し、御開山様として祀られたのではないでしょうか。

▼ 西光院はもともと寺海道にあったように考えられています。この海道から片浜に行く道中に六地蔵、的場の地名があり、的場下にも「田原記」には寺があったと記しているので、寺海道から片浜へ行く道中が昔の寺街道町で、六地蔵の地名は焼き場の六地蔵か或いは墓の入口、六地蔵があった所であると思われます。十二世仲仙♂・大和尚の明治時代の記録によると、
「三河の国渥美郡浦村西光院、龍門寺末、境内地二八一七坪、滅罪檀家十一軒」となっています。  「寺社方家作狭広記」の天保十年(一八三九年)の記録に当時の陣容が残されています。また火事の際に残した瓦には天保十一年と記されており、この時点ではすでに現在の地に有ったようです。   
西光院の前にあった隨應院も、もとは寺海道にあったとされ、宝暦(一七五一〜一七六三)頃に移転されているので、西光院も私の想像ですが、ほぼ同時期に移転されたのではと考えられます。
当院の本尊様は「阿弥陀如来」で、立てられた当時はどの仏様が祀られていたかは定かではありませんが、言い伝えによると現在の本尊様は、鈴木春山の母で有名な「田原のお園さん」が寄贈した時より阿弥陀如来が祀られる様になったとお聞きしました。
田原に点在する寺院の本尊様は「阿弥陀如来」が多く、時代背景が伺われます。
「阿弥陀如来」は永遠に救いを与えて下さる仏とされ、戦国時代さなかに建立された寺院が多い事から、民衆がいかに現世、来世に救いを求めていたかが伺われます。現在では信仰という心が薄れ、いつしか救いを求める場所から遠のいてしまったように感じられます。