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2006/06/07-13:56:11
寺院紹介/fp

象王山 普賢寺

住職:水野 碩翁

【由 緒】
 本寺の全久院誌によれば、開山玄超和尚は慶長14年(1609)薩州鹿児島(現在鹿児島県)に生まれ、正保3年永平寺に瑞世。その後寛文元年に信州松本の全久院13世となった。同5年に退院し同年今の岐阜市に林陽寺を開き、同8年に醫王寺を開き、各々住職をつとめた。更に寛文12年(1672)に美濃国可児郡大原村(現在多治見市大原町)に普賢寺を開いた。当時、村の中央部に瑞光院と称する荒れた寺院があり村の長老や祖南和尚が再建を図ったが果たされなかった。その頃、了然玄超和尚が「この地に土工を起し殿堂を建立して普賢寺と称した。当地は臨済の檀信徒多かりしがことごとく当寺の檀家に帰せり…」。と記されている。
 道元禅師七百五十回忌大遠忌のこの年は普寺開創以来330年となった。

【その他】
 本堂すぐ裏山の中腹には世代の墓地と並んで林丹波守の墓があり12代続いた林丹波守は、普賢寺を菩提寺としていた。大名の墓地は多治見市内ではここだけと言う。普賢寺には刃渡り47センチの槍先が寺宝として伝わっており桐製の朽ちた鞘には墨書で「先祖林丹波守正利高麗陣用之」と記されている。初代正利が高麗出兵の際持参した槍先を何代目かの子孫が菩提寺へ寄進したものであろう。
 多治見・可児・羽島の各市史によれば、関ヶ原の合戦で功をあげた林丹波守は秀明の死後、慶長9年(1604)家康から当時の可児郡大原村・根本村・塩村それに中嶋郡江吉良村(現在羽島市)の合せて2009石を与えられた。
 林丹波守の墓地を遠く取り囲むように、尾根伝いに山を一巡すると「西国33観音」の古い石仏が安置されており(徒歩20分程)四季を問わず参拝する善男善女の姿が見られる。

【交 通】
 JR太多線小泉駅より西方へ1.8キロ(徒歩約20分)